皆さんこんにちは。
今回は。ゲームで考える人権意識ということで、ゲーム業界を中心に現在の人権意識って結構変わってきたよねっていうことを紹介したいなと思います。
行政書士の業務上、人権問題、扱うことはそこまで多くはないです。問題として争うときには裁判になって、弁護士さんの方に行くのが基本ですからね。関りとしては、試験科目に憲法があって、行政手続きでは手続き上の平等が問題視されて、入管業務では、日本人と外国人という形で触れる機会が主なところでしょうか。
検討する題材としてテレビゲームを引っ張ってきたんですけれども、これはもう完全に僕の趣味ですね。 最近の出来事を見ていると、現代における人権意識の変化として面白いものがいくつかあるなと思ったので、それを取り上げて、人権問題みたいなものが身近に感じるようになってもらえたらいいかなと思います。
それでは始めていきましょう
最近の事例~アサシンクリード・シャドウズ~
最初に取り上げるのは、アサシンクリード・シャドウズ(以下シャドウズ)です。これがね、今一番話題としてはホットですね。ただし、悪い意味で。
アサシンクリードって何?な方向けに簡単に説明をすると。キャラクターの自由性(パルクール)を売りにした、アクションアドベンチャーゲームですね。実のところ、僕はプレーをしたことがないので、細かい設定はwiki等に譲ります。
今回取り上げたのは。アサシンクリードの最新作シャドウズの世界観構築に関して。これが結構問題があるといわれています。
もともとアサシンクリードシリーズは歴史上存在したできごとを下敷きに物語を作ることがあったようです。アメリカの独立戦争ですとか、18世紀とカリブ海なんかがテーマになったこともあるようですね。そして、今回のシャドウズですけれども、テーマになったのが安土桃山時代の日本でした。
日本がテーマになるということで、多くのファンが、非常に喜んだのですけれども、実際に発表されたゲームの内容が、おおよそ日本の文化や歴史感にそぐわないものが出てきてしまったので、炎上しているようですね。
何が出てきたのかはちょっとセンシティブな話なので、非常に表記しづらいのですけれども、端的に言えば、当時の歴史観でおおよそ侍になりようがなかった人物が侍であるとして主人公に描かれたのですね。しかも、今までのシリーズでは主人公は完全にフィクションのキャラクターであったにもかかわらず、ここにきて。とある人物を元にその人物として主人公にしたという展開になりました。ほかにも、シンプルな問題ですけれども、畳の配置ですとか、巻物の使いかたですとか、そういった小道具が間違った使われ方をしている等です。
そもそも、ゲームはおおむねフィクションではあるので、実在の歴史と食い違う部分というのが起こるのは意味当然と言えば当然ではあります。しかし、フランスにある開発会社さんが「日本の歴史を忠実に再現した」ということをふれこんで、プロモーションしたところ、「いや、これは日本を忠実に再現したとは言えないだろう」という反感を買ってしまったというのが事の状態です。
実際のところ、歴史上の出来事にフィクションを加えて作品にするという手法は昔からありふれてはいました。例えば、戦国BASARAなんかは、毛利元就は「オクラ」を被っていますし、本田忠勝はもはやガンダムになっています。事実ではそんなことはないだろうということが山盛り入っていても、それがファンに受け入れられているという部分はあります。また、映画で見てみれば、ラストサムライなんかはその一つですよね。士族反乱というのは、事実的下敷きの部分ですけれども、白人の侍に関しては、「およそフィクションである」が皆さんの認識だと思います。
歴史考証の甘さであるとか、楽しみたいがためのエッセンスの部分について、フィクション要素であるといってしまえば、それも味になることはありますが、『史実である』と言ってしまうと、やはり問題が起こるというのが、今回のあらましです。特にその当時の文化感を崩壊させるような形で、文化を利用するというのは、ある種の文化盗用であって、文化の相互尊重という意味合いでをもって、人権意識として問題があるのではないか。というふうに思う次第です。
昔と現代の差、リメイク作品を通じて~スーパーマリオRPG~
次はリメイクに当たって表現は修正された事例ですね。
タイトルは「スーパーマリオRPG」になります。任天堂さんが出しているマリオのゲームですね。
最初の作品としては1996年にスーパーファミコンで発売されました。それが2023年にニンテンドーswitchでリメイクされたという形になりますね。
小学生の頃、このゲーム遊んで無事にクリアまではしました。小学生当時には、なかなかに難しかったです。大人になってから振り返ってみると、実は簡単にクリアできる方法があって、ちょっと成長というか、あの頃の幼さを噛み締める作品になったなという感じです。
で、今回表現の修正というお題ですけれども、修正されたのはマリオの勝利ポーズが修正されていました。スーパーファミコンの頃は勝利ポーズ(敵を倒した後のポーズ)がピースサインだったのですけれども。本作からピースサインがなくなりました。
なんでだ?と思って調べてみると。ピースサインは国によっては侮辱的なボディランゲージになることがあるので、修正されたと。他にもリメイク前のスーパーファミコン版のバージョンから、実は国内バージョンと海外向けのバージョンで少し表現に違いはありました。クッパの勝利ポーズがちょっと違ったんですよね。これも同様に国内版のボディランゲージだと海外では少しよろしくない表現になると言うことで修正が入ったようです。
僕の子供の頃って、国内にあるテレビゲームって日本だけのものというイメージでいたんですけれども、大人になって振り返ってみると、結構海外にも出荷されていたという事実が明らかになってきました。そして今やそのゲームは国内市場だけじゃなくて、その海外の市場に向けても作られているっていうのは、もう当たり前の話ではあるんですよね。
となると、海外の国々によって微妙に文化が違うだとか、規制のあり方が違うというところの問題があって、海外に合わせた修正も必要になってくる時があるっていうのが、今のゲーム開発の実情のようですね。テレビゲームではありませんが、遊戯王のカードゲームのイラストも海外向けは布面積が大きいなんて言うのもよくあるネタですよね。
実際配慮も大事ですし、二つ作れというとコストがかさんでくるので難しい部分ではあると思うのですけれども。ただ、日本国内に居るのに海外の基準で合わされて縮小した表現になっていることもあって、日本の一ユーザーとしては、もったいないと感じることもあります。とは言え、互いの文化を尊重するという意味合いで言えば、日本の文化表現に向こうを合わせろというのは間違っていますし、その逆も然りではあると思うので、ここのところに関してもう少しいい落としどころが見つかればなとも思います。
昔の作品は今に通じる?~ストリートファイターのヨガ~
最後に今だったら許されてないのかも。というものについて少しお話しようと思います。タイトルは「ストリートファイター」ですね。最近6が出て非常に盛り上がっていますよね、ストリートファイターシリーズ。かく言う僕も一周年記念ということで、セールされたので、つい買っちゃいました。ストリートファイター買ったの、スーパー2以来かな?
なんでこのタイトルを取り上げたのかと言いますと、登場キャラクターがすごく個性的なところに注目をしました。例えばダルシムですけれども。このキャラクター結構個性的ですよね。手足が伸びて火を吹き出してテレポートするヨガの達人。というキャラクター設定になっています。そしてインド代表、つまりインド人です。
当たり前ですが、インド人がこんなことが出来るわけはありませんよね。ですが、人外なことができる設定を付与し、インドの代表者がこれだと言ってしまうのは、今の世の中だとどう映るんですかね?
逆に外国人から見たアイコニックな日本人と意味合いでは侍だった忍者だったりすることは多分にあるのですけれども、侍や忍者ってあくまで職業ですからね。現代人でも名乗ろうと思えば名乗れる。少なくともおよそ人がしないことはしないというキャラ付けになっていると思うのですよね。仮にするとしても、何かしら外的理由がある。ゴムゴムの実とか。
今でこそ30年近く時を経たので、ダルシムはダルシムという一つのキャラクターとして受け入れられている側面はあると思うのですが、これが仮に令和のゲームだった時に、こういう作りをしたとしたら、多様性の問題からなんか批判が出ていりしていたのかなという風にちょっと思うことがあるんですよね。
そういうことが気になったという意味合いを持ってしても、やっぱりこの30年間でゲームのキャラクターが保有する、現実世界の1種の人権意識的な問題点というのが少し写り込んできているのかなというふうに思います。
終わりに~フィクションと現実の境~
終わりになりますが、極論ゲームは所詮ゲームだ、フィクションだという主張も、あるにはあるんですよ。ゲームの出来事が現実世界に影響を及ぼすわけじゃない。それはある意味で正しいと思います。ただ、ある意味で違うとも。
結局作り手が何を意識して何をモチーフに作ったのかということは、やっぱり見え隠れするものです。その見え隠れしたものが差別的であるというふうに糾弾されるというのは、やっぱり今後もあるのかなと言うふうに思います。
他方でゲームはフィクションだとは言いながらも。やっぱりそのフィクションを楽しむために、世界観であるとか、守るべきものは守ってほしいですね。ほんの一例ですけれども、江戸時代を舞台にしたゲームで登場人物の半数以上が日本人ではない等は現実から考えるとちょっと違和感はあるんですよね。それを日本が舞台だと言われても少し困る。同様に、18世紀のフランスなどを舞台にしたゲームを作ったときに、日本人がわんさかいるというのも同様。
人種や国籍というのを重んじる多様性を重んじる文化というのはとても大事ですけれども、歴史的に背景事実がしっかりしているものは、やはりその背景事実に乗っかって作るということも、やっぱり同じぐらい肝要なのではないかというふうに思いました。
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